桜の葉が赤く (その2)
2010年10月18日
朝の自転車、寒くなってきた。指切りの手袋で走れるのもそろそろ終わりかもしれない。ジャージの上にレインウェアを着込んでも、やや寒すぎるくらい。もう少ししたら耳当てなどが必要になるだろう。スピードも大してでていないのに、涙が出て眼が痛い感じ。自転車用の眼鏡に替えたら少しは寒さから眼を守れるのだろうか。スキーのゴグルでは、ややオーバースペックではないか、など思い巡らしながら、滑稽な我が姿を想像してみる。スキーゴグルが必要な頃にはきっと雪も降って路面も凍結し、現在のスリック1.25インチタイヤでは走行不可能であろう。そしたら、2.1インチのスパイクタイヤに履き替えてみるか? それも週末のバイクハイキングには面白いかもしれない。木の葉が散った林では小鳥たちが目立ち始めて面白い。が、さすがに国道36号とススキノの通りで多くのクルマの脇を通り抜けなくてはならない毎朝の通勤には荷が重いように思われる。
私のカデット号は、先々週の土曜日にブレーキ・変速レバー、それにワイヤ一式を交換した。ハンドルも60cm近いライジングバーだったものを46cmのフラットバーに交換した。エンドバーグリップも装着。この改造でハンドル位置がずいぶんと下・前となり、前傾姿勢の高速仕様となった。格好良くなりスピードもずいぶん出せる。しかし、先週の木曜日・金曜日と、夜の帰り道では右の腰が痛くてつらかった。フラットバーでの前傾姿勢オンリーなので腰に負担が来てしまうようだ。相棒のロードバイクと比較してみたところ、ハンドル位置はロードバイクよりも数センチは前で、5cm以上低い位置。ドロップハンドルの下ハンドル位置に相当する感じだろう。ロードバイクの方がずっと快適仕様である。腰が慢性炎症を抱えると大変なので、大事をとって、土曜日にはスペーサーを1cm入れてステムを上げ、さらにステムの角度が0度だったものを30度仰角にまで最大に上げ、さらにサドルを数センチ前に出した。この際、セルSMPだったサドルをveloの快適サドルに戻した。この調整ですっかりアップライトポジションの自転車に戻ってしまった。
今日、通勤に使ってみると、さすがにアップライト安楽ポジションでのんびりした走り。スピードも汗も出ないが、腰には負担がないようだ。私のカデット号のフレームは、私の体には小さすぎるのかなと思っていたが、設定の調整でベストの位置は見つけられそうだ。すなわち、もともとは私にとって適当な大きさのフレームなんだろうと思う。これから少しずつハンドル仰角を下げたり、サドルを少しセットバックするなど、快適かつ少々速い、ベストに近い位置を見つけてみたいと思う。
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朝の自転車、寒くなってきた。指切りの手袋で走れるのもそろそろ終わりかもしれない。ジャージの上にレインウェアを着込んでも、やや寒すぎるくらい。もう少ししたら耳当てなどが必要になるだろう。スピードも大してでていないのに、涙が出て眼が痛い感じ。自転車用の眼鏡に替えたら少しは寒さから眼を守れるのだろうか。スキーのゴグルでは、ややオーバースペックではないか、など思い巡らしながら、滑稽な我が姿を想像してみる。スキーゴグルが必要な頃にはきっと雪も降って路面も凍結し、現在のスリック1.25インチタイヤでは走行不可能であろう。そしたら、2.1インチのスパイクタイヤに履き替えてみるか? それも週末のバイクハイキングには面白いかもしれない。木の葉が散った林では小鳥たちが目立ち始めて面白い。が、さすがに国道36号とススキノの通りで多くのクルマの脇を通り抜けなくてはならない毎朝の通勤には荷が重いように思われる。
私のカデット号は、先々週の土曜日にブレーキ・変速レバー、それにワイヤ一式を交換した。ハンドルも60cm近いライジングバーだったものを46cmのフラットバーに交換した。エンドバーグリップも装着。この改造でハンドル位置がずいぶんと下・前となり、前傾姿勢の高速仕様となった。格好良くなりスピードもずいぶん出せる。しかし、先週の木曜日・金曜日と、夜の帰り道では右の腰が痛くてつらかった。フラットバーでの前傾姿勢オンリーなので腰に負担が来てしまうようだ。相棒のロードバイクと比較してみたところ、ハンドル位置はロードバイクよりも数センチは前で、5cm以上低い位置。ドロップハンドルの下ハンドル位置に相当する感じだろう。ロードバイクの方がずっと快適仕様である。腰が慢性炎症を抱えると大変なので、大事をとって、土曜日にはスペーサーを1cm入れてステムを上げ、さらにステムの角度が0度だったものを30度仰角にまで最大に上げ、さらにサドルを数センチ前に出した。この際、セルSMPだったサドルをveloの快適サドルに戻した。この調整ですっかりアップライトポジションの自転車に戻ってしまった。
今日、通勤に使ってみると、さすがにアップライト安楽ポジションでのんびりした走り。スピードも汗も出ないが、腰には負担がないようだ。私のカデット号のフレームは、私の体には小さすぎるのかなと思っていたが、設定の調整でベストの位置は見つけられそうだ。すなわち、もともとは私にとって適当な大きさのフレームなんだろうと思う。これから少しずつハンドル仰角を下げたり、サドルを少しセットバックするなど、快適かつ少々速い、ベストに近い位置を見つけてみたいと思う。
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テーマ : 紀行 旅で見つけた風景など
ジャンル : 日記
桜の葉が赤く (その1)
2010年10月16日
自転車で北広島へ向かうと、2,3匹の白い虫に気づいた。ユキムシだ。
桜の葉も赤く、ほろほろと散っている。
このところ気に入っている栗山恵庭ラインのまっすぐな農道を進むと、雲間からの陽射しが少し暖かく、風が心地よかった。土曜の午後、日が暮れるのが早い。
北広島の鉄橋にさしかかると、川の上空でユキムシの大群が舞っている。大谷地の駅の近くではスペースをぎっしり埋めているかと思われるような雲のようなユキムシ空間を破って進む感じになった。これから寒くなる前触れと言われているユキムシの群れ。自転車でこの辺りを逍遙することがないと見過ごしてしまうであろう季節の通過点である。
来年の3月の終わりまで、もう6ヶ月もなくなってしまった。もう少ししたら雪が降り出すのであろう。それまで少しでも多く自転車で走っておきたいと思う。土曜日の走行距離73km。
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自転車で北広島へ向かうと、2,3匹の白い虫に気づいた。ユキムシだ。
桜の葉も赤く、ほろほろと散っている。
このところ気に入っている栗山恵庭ラインのまっすぐな農道を進むと、雲間からの陽射しが少し暖かく、風が心地よかった。土曜の午後、日が暮れるのが早い。
北広島の鉄橋にさしかかると、川の上空でユキムシの大群が舞っている。大谷地の駅の近くではスペースをぎっしり埋めているかと思われるような雲のようなユキムシ空間を破って進む感じになった。これから寒くなる前触れと言われているユキムシの群れ。自転車でこの辺りを逍遙することがないと見過ごしてしまうであろう季節の通過点である。
来年の3月の終わりまで、もう6ヶ月もなくなってしまった。もう少ししたら雪が降り出すのであろう。それまで少しでも多く自転車で走っておきたいと思う。土曜日の走行距離73km。
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テーマ : 紀行 旅で見つけた風景など
ジャンル : 日記
免疫沈降を巡る今昔物語
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2004年9月17日
私が癌研の鶴尾隆先生のお部屋に初めて伺ったのは1983年の12月14日。先輩の渡邉俊樹先生のご紹介である。以来、2000年の3月24日まで16年余、癌研での研究生活を送ることとなった。
私にとって、研究の第一歩は、抗癌剤耐性を克服するモノクローン抗体のスクリーニングである。「星の時間」と言えるのは、免疫沈降法(以下、IP)によって抗原決定に成功した瞬間だろう。1985年3月から始めたIP。やっと成功したのは6ヶ月後、9月半ばのことである。その間、大学を退職し医局も離れて、無給なのにアルバイトもせず、生活の全部を打ち込んだ。
学んだこと:自分の手で実験し、失敗し、失敗の原因がなぜか考えて、工夫してやってみて、やはり失敗し、失敗の原因がなぜか考えて、さらに工夫してやってみて、やはり失敗し、、、失敗の連続、、、決してくじけず、、、いや、ほとんどくじけそうになりながらも、、、そして最終的に成功する(に違いないと思って続ける)。これが、研究だ。
20年後、今では、眼の調節の問題から、細かい実験操作は難しくなってしまった。しかし、自分の手を動かす個々の実験が医学研究の根本。若い研究者と一緒に、96ウェルアッセイの生データを見ながら何かをつかむこと、予想が当たったかどうか自分の目で顕微鏡をのぞいて確かめること、そこに科学することのおもしろさを見つけたい。だから(?)昔話を語るのではなく、今を現役で生きることが大切。
そこで、今回は、IPの技術に関して、20年前と今とで、何が変わって何が変わらないか私見を述べてみたい。ただし、IPと一口に言っても、抗原が多岐にわたり実験目的が雑多であれば、ここで論じ尽くせない。20年前に対象となり、今も私のメインプロジェクトである、生きている動物細胞・生体組織の膜表面に結合する新規モノクローン抗体に関して、未知の標的タンパク抗原を同定しようとする場合に限定する。
個々の抗体と膜表面抗原のペアによっては、IPの難しいものが多い。膜タンパクをネイティブな構造のままで可溶化するのが難しく、可溶化によってエピトープの構造が変化し、抗体と抗原がくっつかなくなってしまう。何の工夫も必要なく、最初のトライアルでIPに成功することもある。しかし、どうしても抗原を決められない難しいものもある。予測不能。気まぐれとも言える難しさだ。
1.ウェスタンブロット(WB)法vs免疫沈降(IP)法。
WBが本領発揮するのは、SDSによる変性と電気泳動(SDS-PAGE)で、短時間で抗原の分子量を決定できる場合である。複合体の中のサブユニットを認識する抗体の場合には、IP法では抗原のみならず複数の結合タンパクが落ちてくるが、WB法では抗原分子を選別できる。
一方、WBはSDSで抗原を変性させる操作を伴うため、WBによる検出が不可能な抗体も多い。特に、標的の機能修飾ができる「機能性抗体」は、標的タンパクの高次構造を認識する場合が多く、多くはWB不能である。WB不能の抗体に関しては、特に粘ることなく、IPを工夫してゆくのが得策と考える。
2.タンパクないし細胞のラベル法、検出法。20年前、カーボン14ロイシンでメタボリックラベルした。オートラジオグラフィーを3日目で開け、抗原バンドが得られない場合は、一週間から10日のエクスポージャーで何とか抗原バンドが見えないかと粘った。20年前、IPの繰り返しで6ヶ月の時間を要した。この多くの部分は、オートラののエクスポージャー待ち時間である。待っている間は、(万が一)失敗していたら次はここを改良してみよう、という実験プロトコールの考案に当てた。現在の実験のテンポと比較すれば、ずいぶんのんびりしたスケジュールである。が、失敗が重なると先が真っ暗で焦燥感がつのる。失敗していても次にトライする改良実験を思いつくのが困難である。
蛍光イメージアナライザーが癌研の研究所に導入されたのが、それから数年後のことである。実験のペースは大きく加速した。この時代の流れの中で、カーボン14によるラベルは余りにもペースが遅く、今では免疫沈降の場面で用いられることは稀である。また、現在では、ラジオアイソトープを使う実験自体、非常に少なくなった。現在、私たちはリジンのイプシロンのアミンをビオチンラベルする方法を汎用している。生きた細胞の表面タンパクのリジン残基を極めて簡単にラベルすることができる。ビオチン化によってもエピトープ認識が維持されていることを、FACSなどで確認したうえでIPに取りかかる。
3.膜の可溶化法。20年前、最初に使った可溶化剤がNP40。NP40は、教科書には最もマイルドな可溶化剤と書かれていたので、ファーストチョイスで用いた。が、これがつまずきの始まりであった。ずっと後になって、さまざまの可溶化剤を系統的に調べてみたところ、私が追い求めていたことになる膜12回貫通のP糖タンパクと私の抗体の組み合わせでは、CHAPS、デオキシコレート(DOC)、コレートではIP可能、NP40、nオクチルグルコシドなどではIPできないことが明らかとなった。ABCトランスポーターのATPase活性を可溶化剤ごとに検討したところ、CHAPSではATPase活性が得られたのに対して、DOCでは全く活性が認められなかった。現在の私たちの方針:まず、TritonX100など、代表的な可溶化剤でIPをトライ。これで抗原バンドが得られない場合は、第2段として、先入観無く、各種可溶化剤を(できるだけ多く)トライ。それでも難しい場合には、第3ラインとして、以下の化学架橋を試みる。
4.化学架橋による抗原と抗体の共有結合を利用する免疫沈降。20年前、13回目のIPで、架橋化剤DSPを使用。あらかじめ抗体を細胞に結合させたあと、架橋剤を加えて抗原と抗体を共有結合で結びつける。そのあと、可溶化。この方法では、どんな可溶化剤でも抗原同定可能なので、一種類の可溶化剤を用いる。DSPによって抗体と抗原がリンクされているので、(もともとのエピトープと抗体の結合がはずれてしまうが)IP法によって抗原の分子量を同定することができた。これが、私の最初のIP実験成功。
どんな場合でも架橋は成功するのか? 先日、ピアス社から売り出されている架橋化剤のリストを調べてみた。システインのSH基を利用するもの、糖鎖のCHOを使うものなど、若干数あるが、大多数はリジンのイプシロンのアミンを利用するものだ。従って、基本的には抗体のリジンと抗原のリジンを架橋できるかどうかが、この方法の汎用性を決める。架橋化剤のアームの長さは10オングストローム程度で、選択可能である。残念ながら、アームの長さを変えてさまざまトライした経験はない。
IPに関連して、語りたい話題は多い。プロテインA、プロテインG、プロテインL、どれを使って抗体抗原コンプレックスを落とそうか? 得意としている遺伝子操作によるIgMからIgGへのサブクラスの変換。抗原の同定法としての、ペプチドシークエンサー、質量分析。発現ライブラリーの抗体反応スクリーニングによるcDNAクローニング。抗原が既知のものとわかった場合、どこまで粘るか? 特許出願は? そして、目指すは、抗体の臨床応用。今の自分を眺めてみると、何度トライしても成功しないIP実験で、バンドが現れないオートラのフィルムを洗いながら、赤いぼっとした光のともる暗室の中で一人っきりで沈み込んでいた20年前の自分と、基本的にほとんど同じ研究者を見いだす。20年前に癌研で始めた仕事を今も続けている。次のIPは成功させるぞと、唇を噛みながら。
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大風が吹くとウルシにかぶれる
2004年9月22日
9月8日水曜日の台風18号、50年に一度の暴風台風であった。朝、普通に円山に登った。この時刻は、ちょうど台風の進行方向に対して、逆方向の風が吹いていたのか、それほどたいした風ではなかった。が、午前中のグループミーティングの時間帯は、セミナールームのガラスが壊れるのではないか、と思われるほどの強烈な風。医大の庭の松の大木もくねっと曲げられたところで、ぼっきり折れた。
9月12日、日曜日。円山の登山口は、札幌市の黄色いテープで、立ち入り禁止。登ってみると、確かに、登山道は多くの大木が倒れて、台風の強烈さを物語る。ハリギリもミズナラも大きいのがポンと倒れている。根が十分に垂直に張っていない。木の下はごろごろの岩だ。この岩は、ひょっとするともともとこのようなごろごろの岩だったのではなくて、今は倒れて、死にかけているこの倒木が、若い頃からこつこつと砕いてきて今に至っていたものか。今回の台風18号のように、強烈な風が吹かない限り、もう30年も50年も生き続けていたかもしれないけれど、もともとは、岩場の上に生えた、厳しい環境で頑張って生きた、そしてこのような大風が吹けば、死ぬことも覚悟の上で生きてきた木々の最期の姿を看取っているのかもしれないと思った。幸田文の文章たちを思い出す。あの本は、板橋の本棚に置いたまま、北海道に越してきたのだった。円山の原生林、大木になったとしても、決して恵まれた環境ですくすくと生きてきたのではない。そして、天寿を全うできるわけではないのだ。
今になって思い返すと、この頃からだ。私の左前腕、背側腹側ともに広範囲な激しい湿疹。風邪をひいて、いくつか薬を飲んでいたため、薬疹かもしれないと考え、すべての薬をやめて様子を見る。が、いっこうに改善しない。ひどくなって熱を持つ。9月17日にもう一度円山に登ったのも、今にして思うと、用心が足りなかった。こんなに激しい皮膚炎は、小学生の頃にウルシにかぶれて以来のことだ。どうやら、円山の登山道で台風によって倒れた木々のなかに、ウルシの樹があって、それでひっかいたらしい。前腕背側のひっかき傷(10cm)あり、その周囲は幅一センチ以上(12mm)にわたってびっしりと真っ赤な湿疹で埋め尽くされていて、一番ひどい。20日の日には、円山登山道を注意深く歩いてみた。登山道を封鎖していた多くの大木はチェーンソーで切られ、次第に歩きやすい道に戻ってきている。十日以上の経過で、すでに枯れかかってはいるけれど、注意深く歩いてみると、確かに、ウルシの系統の木々も倒れている。特に、山頂から円山動物園入り口に下る道は、ウルシの倒木が目立つ。気づかないけれど、どれかでひっかいたり接触したりしてしまったのだろう。円山界隈のガイドブックにも、秋には美しいヤマウルシの紅葉が見られる、と書いてあるとのこと。(負け惜しみになるが)40年を隔てて、豊かな自然とまた遭遇できた、とも言える。
原因が推定できても、容易に治せるものではない。リンデロンの軟膏外用薬と、アレロックの内服で様子を見ている。が、余り効かない。昼間は熱を持って、頭がぼっとなり、夜はかゆくて目が覚める。
おととい(9月20日)からようやく丘疹のてっぺんが痂皮になりつつある(乾燥してきた)。
反省: 大木が倒れて、薮漕ぎになるときは、必ず、長袖長ズボン手袋などで、防備しないとダメ。
アイデア: がん抗原ペプチドと、ウルシハプテンで、強烈な抗腫瘍免疫を誘導できるはず。将来、研究してみたい。コントラアイデア1:こんな激しい炎症をマウスやラットに背負わせるのは非道い。コントラアイデア2:ウルシにかぶれない人には、全く症状がないのだ。私の父には強烈なウルシマケが起こるのだが、父の妹の君子叔母にはいくらウルシに触っても何事も起こらない。MHCのタイプによるのだろう。
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テーマ : 紀行 旅で見つけた風景など
ジャンル : 日記
スラブゲル電気泳動による塩基配列決定実験
2010年12月27日
ご連絡いただきありがとうございました。 私の理解するところでは、310では数検体だけの配列を決め、それをもとに仕事を進める、という場合には、便利なものです。一方で、3100ではできれば16検体で行うと良く、数検体というのは一般にはコストパフォーマンスが若干悪いと思われます。(レーザーの代金に比べてしまえば、たいした金額の差でもなさそうですが。) 検体数をまとめると仕事の効率がまったりしてしまうので望ましくない、という場合には310を持っておくのは良いことです。
年あたり30回から50回程度とすると、若干少なめとはいえ、まあ相当な回数なので、自分でいつでも使える機器を持っておくことはどちらかといえば有利だと思います。その都度の検体数によって、310があった方が良いかどうかが決まるでしょう。その都度の検体数が多ければ共用の3100がベターで、310を自分でもつのは余分な負担です。
一方、310を持つ、ということは310で塩基配列を決めることを自分でやる、ということを意味します。ので、先生ご自身が、しょっちゅう使うことで、しっかり活用してあげるようにすることが大切です。レーザーのついている器械は、レーザーが消耗品かつ100万円内外と高価なのが難点です。また、Y大学では塩基配列決定のサービス部門やテクニシャンを持っていません。基本的に自分で行うという状況のようです。(これに関しては、将来、サービス部門を作ろうという方向もあり得るとは思いますが、現状はこの通りです。)
判断のためのひとつのヒントとして、先生ご自身が、学生と一緒に塩基配列決定実験を行い、しっかり教えてあげて自分でも塩基配列決定できるように教育する、というのであれば310に関して自分たちのものを持っているのは良いことに思います。塩基配列のような基盤データを、学生にきっちり読ませる、というのは、研究の質によっては、とても大切で良い教育にもなり得ます。
対照的に、塩基配列決定は、ほんの時たまで、学生に教えても次回は時間が経ちすぎていて双方(すくなくとも学生は)やり方を忘れている、というのであれば、外注などの方が良いでしょう。ほんの時たま数検体であれば、レーザー代金に比べて外注の方が圧倒的に安いし、時間をほかの大切なところに使えます。自分で使う気持ちになれなければ、器械を持たないのが身軽です。
以上のようなところを考えて、先生の仕事の今後の性質から判断すると良いと思います。その上で、F先生と相談してみてください。
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ちなみに私自身は、1992年から数年間、ガラス板を磨いてゲルを流し、高圧の電気泳動、RIの32P、とても読みにくい塩基配列決定を自分でやっていました。たった600ベースを読むのも両方向、端からだけでは難しいことも多く、プライマー2本を余分に作製したこともあります。その作製も自分で器械を操作して作りました。さらにオートラジオグラフィーのパターンを読むのが読みづらくてまた難儀でした。私の弟子たちは、あからさまに?軒並みいやがって習おうとしないので、私が弟子のためにテクニシャンとなって実験し読んであげているという数年間でした。全部足し合わせてもたったの50kbほどに過ぎないのに、うまく読めない場所が多くて繰り返すことも多く、体力的にも気力的にも実に苦しい実験で、今から思うと、自分に対してマゾヒスチックだったかもしれません。
その数年後には、キャピラリの時代となり、私は器械を持っていなかったので、外注するようになりました。310や3100の時代になって、隔世の感があります。そして今は、310も実に旧式と見なされる時代かもしれません。レーザー切れなどで捨てられるのもむべなるかなです。
上記のようなスラブゲルによる塩基配列決定のためのパワーサプライや泳動槽を、S大には持ってきたのですが、12年間、使った事例がありません。今となっては、旧式な技術の代表のような技術で、せっかく腕を磨いたのに、誰にも「ガラス板磨きのコツ」その他もろもろを伝授する機会があろうはずもありません。今回の引っ越しで、また東京薬科大学に持ってくるべきかどうか、別の実験に使えるのかどうか、私もF先生に聴いて教えてもらわなくてはなりません。
また、「現在の私の仕事に関してだけ述べれば、ちょこちょこと即戦的に配列確認しながら進めるような仕事がほとんど無く、310がコスト面から絶対有利な状況にありません。大体は待期的にある程度まとめて塩基配列を決めればよいような仕事がときどき(年に数回程度)あるだけです。よって、共用の3100があればコスト面も含めて不足はないと思います。」 と書いたように、現在、抗原候補を見つけると、すでに市販で対応するcDNAを売っているのでそれを購入して使うことが多く、気合いを入れてのめり込む遺伝子以外は自分でPCRで得る、ということも無くなってしまいました。なので、ほとんど塩基配列を読んでいません。前回頑張ったのは、今の、プロテインGのIg結合部位の溶連菌からのPCRクローニングで、すでに2年前です。このような場合には、一度に多くのPCR産物の配列を読みますので、器械は3100でぴったりです。310が要らないと考えた所以です。
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それでは、良い年末・お正月をお迎えください。来年、いっしょにまた仕事できるのを楽しみにしております。
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ご連絡いただきありがとうございました。 私の理解するところでは、310では数検体だけの配列を決め、それをもとに仕事を進める、という場合には、便利なものです。一方で、3100ではできれば16検体で行うと良く、数検体というのは一般にはコストパフォーマンスが若干悪いと思われます。(レーザーの代金に比べてしまえば、たいした金額の差でもなさそうですが。) 検体数をまとめると仕事の効率がまったりしてしまうので望ましくない、という場合には310を持っておくのは良いことです。
年あたり30回から50回程度とすると、若干少なめとはいえ、まあ相当な回数なので、自分でいつでも使える機器を持っておくことはどちらかといえば有利だと思います。その都度の検体数によって、310があった方が良いかどうかが決まるでしょう。その都度の検体数が多ければ共用の3100がベターで、310を自分でもつのは余分な負担です。
一方、310を持つ、ということは310で塩基配列を決めることを自分でやる、ということを意味します。ので、先生ご自身が、しょっちゅう使うことで、しっかり活用してあげるようにすることが大切です。レーザーのついている器械は、レーザーが消耗品かつ100万円内外と高価なのが難点です。また、Y大学では塩基配列決定のサービス部門やテクニシャンを持っていません。基本的に自分で行うという状況のようです。(これに関しては、将来、サービス部門を作ろうという方向もあり得るとは思いますが、現状はこの通りです。)
判断のためのひとつのヒントとして、先生ご自身が、学生と一緒に塩基配列決定実験を行い、しっかり教えてあげて自分でも塩基配列決定できるように教育する、というのであれば310に関して自分たちのものを持っているのは良いことに思います。塩基配列のような基盤データを、学生にきっちり読ませる、というのは、研究の質によっては、とても大切で良い教育にもなり得ます。
対照的に、塩基配列決定は、ほんの時たまで、学生に教えても次回は時間が経ちすぎていて双方(すくなくとも学生は)やり方を忘れている、というのであれば、外注などの方が良いでしょう。ほんの時たま数検体であれば、レーザー代金に比べて外注の方が圧倒的に安いし、時間をほかの大切なところに使えます。自分で使う気持ちになれなければ、器械を持たないのが身軽です。
以上のようなところを考えて、先生の仕事の今後の性質から判断すると良いと思います。その上で、F先生と相談してみてください。
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ちなみに私自身は、1992年から数年間、ガラス板を磨いてゲルを流し、高圧の電気泳動、RIの32P、とても読みにくい塩基配列決定を自分でやっていました。たった600ベースを読むのも両方向、端からだけでは難しいことも多く、プライマー2本を余分に作製したこともあります。その作製も自分で器械を操作して作りました。さらにオートラジオグラフィーのパターンを読むのが読みづらくてまた難儀でした。私の弟子たちは、あからさまに?軒並みいやがって習おうとしないので、私が弟子のためにテクニシャンとなって実験し読んであげているという数年間でした。全部足し合わせてもたったの50kbほどに過ぎないのに、うまく読めない場所が多くて繰り返すことも多く、体力的にも気力的にも実に苦しい実験で、今から思うと、自分に対してマゾヒスチックだったかもしれません。
その数年後には、キャピラリの時代となり、私は器械を持っていなかったので、外注するようになりました。310や3100の時代になって、隔世の感があります。そして今は、310も実に旧式と見なされる時代かもしれません。レーザー切れなどで捨てられるのもむべなるかなです。
上記のようなスラブゲルによる塩基配列決定のためのパワーサプライや泳動槽を、S大には持ってきたのですが、12年間、使った事例がありません。今となっては、旧式な技術の代表のような技術で、せっかく腕を磨いたのに、誰にも「ガラス板磨きのコツ」その他もろもろを伝授する機会があろうはずもありません。今回の引っ越しで、また東京薬科大学に持ってくるべきかどうか、別の実験に使えるのかどうか、私もF先生に聴いて教えてもらわなくてはなりません。
また、「現在の私の仕事に関してだけ述べれば、ちょこちょこと即戦的に配列確認しながら進めるような仕事がほとんど無く、310がコスト面から絶対有利な状況にありません。大体は待期的にある程度まとめて塩基配列を決めればよいような仕事がときどき(年に数回程度)あるだけです。よって、共用の3100があればコスト面も含めて不足はないと思います。」 と書いたように、現在、抗原候補を見つけると、すでに市販で対応するcDNAを売っているのでそれを購入して使うことが多く、気合いを入れてのめり込む遺伝子以外は自分でPCRで得る、ということも無くなってしまいました。なので、ほとんど塩基配列を読んでいません。前回頑張ったのは、今の、プロテインGのIg結合部位の溶連菌からのPCRクローニングで、すでに2年前です。このような場合には、一度に多くのPCR産物の配列を読みますので、器械は3100でぴったりです。310が要らないと考えた所以です。
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それでは、良い年末・お正月をお迎えください。来年、いっしょにまた仕事できるのを楽しみにしております。
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スリックタイヤのパンク
2010年11月25日
朝の出勤のため自転車を玄関に持ち出した折りに、後輪がペシャンコなのに気づいた。昨日たまたま自転車を部屋まで持って上がり、ハンドルまわりを片付けたり、サドルを付け替えたり、どろんこ汚れを掃除したり、簡易のフェンダーを取り付けたり、といった作業を行った。その折りに後ろタイヤにガラスの様なトゲがいくつも刺さっているのを見つけた。目で見て、取り除けられるものは丁寧に取り除いたつもりだった。が、今朝はすっかり空気が抜けていたのである。
出勤は少し遅れてしまうが、チューブの交換をすることにした。とりだしたチューブに空気を入れてみても、耳を当てただけではどこに穴が開いているかわからなかった。そこで、洗面所で水を溜めてチューブを突っ込み、チューブからの泡で傷口を同定。昨夜はタイヤに複数のトゲが刺さっていたことでもあり、調べて見たところ、タイヤにも該当する箇所に一致して鋭い傷があり、内側まで貫通しているガラスの様なトゲが刺さったままであった。外側は先端が折れて見づらくなっていた。昨日は抜き損ねたのだ。トゲは石英の小石のような質感であったが、恐らく車道の路肩を通行中に拾ってしまったガラスの破片であろう。昨夜の帰途に、破片が散らばっている場所を運悪く通過してしまったのであろう。前輪も心配ではあるが、今回ははっきりしたトゲは見つからなかった。
26インチのハードテイル・マウンテンバイクのタイヤを1.95インチのブロックタイヤから1.25インチのスリックタイヤに交換したのが、9月のことだ。それから2か月余りで700kmほど走行しただけなのに、すでに2度目のパンク。ブロックタイヤは3シーズン5000kmも乗ってきたのに一度もパンクを経験しなかったことを考えると、スリックタイヤはパンクの原因を拾いやすいものだと実感した。
通勤はほぼ完全に舗装道路のため、ブロックタイヤはオーバースペックである。が、パンクしにくいという点では大きなメリットがあることがわかった。5000kmも乗って、さすがに後輪のタイヤの中央はすり減ってきたものの、前輪のタイヤはまだまだ3000kmぐらいは平気で乗れそうである。
もちろんスリックタイヤのおかげで走行が若干軽快であるのは嬉しいことである。1.25インチ(32mm)はかなり太めのタイヤに見える。よって安定感はある。実際、段差の乗り越えや道路の亀裂などに関しては、スリックタイヤ1.25インチでも、危険を感じたことはなく、全く問題なくて700kmを乗ってこれた。
これがロードバイクの23?25mmのタイヤだと、段差の乗り越えや格子の蓋(縦溝)の通過は、少し心配。ただし、今のところ私のロードバイクは2500kmの走行で一度もパンクを経験していない。ビギナーズラックに過ぎないかもしれないが。現にL氏のクロスバイク(700cx28タイヤ)のチューブは、走行距離が少ないのに、すでに3回も交換している。
パンクへの対処はチューブ交換の手際が良くなったせいでずいぶんと簡単に行えるようになった。さらにもう一度空気が抜けてしまう危険があると考え、今朝は、ポケットに換えのチューブとタイヤレバーセットを入れて、家を出た。特に問題なく11.5kmの道のりを終え、職場で仕事を開始。職場に着いてからわかったのだが、今朝はせっかくチューブやレバーを持参したのに、空気入れを持ってくるのを忘れていることに気づいた。これではいざというときに頼りなく、持参品も用をなさない。セットにして常時持ち歩くものを決めておくことが大切だろう。
それともスリックタイヤをやめてブロックタイヤに回帰して余分な修理セットを持ち歩かない方が潔いか? それとも、ブロックタイヤでもやっぱりパンク交換ぐらいのセットは常時持ち歩くべきか、スタイルのある選択をしてゆきたいところである。
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テーマ : 紀行 旅で見つけた風景など
ジャンル : 日記
夜と霧のパラドックス
夜と霧のパラドックス
2005年8月12日
以前、2005年3月20日付けで「南氷洋の「洋」」と題して、ガラード「世界最悪の旅」を紹介しました。わたしの友人、Aさんが、早速この本を注文購入して読んでくださっている、とのこと。わたし自身、この本からの長い引用をときどき読み返してみています。その後、植村直己の「極北に駆ける」山と渓谷社、2000年(初版は1974年、文藝春秋)、本多勝一の「極限の民族 第一部 カナダ・エスキモー」朝日新聞社、1967年、さらに、フリッチョフ・ナンセンの「極北 フラム号北極漂流記」中公文庫、2002年(原書は1897年刊)など、読み進んでいます。いつか、これらの本についても紹介したいと思っています。
さて、今回は、別ジャンルの二冊の本を紹介します。ともに、非常に重い、深い内容なので、ここでは気軽なタッチの私のコメントを置いたりするのは、差し控え、ただ単純に引用し紹介させていただきたいと思います。私も、折に触れて、これらの本を読み、考え、そして生きていきたいと思います。
以下は、「フランクル著作集1 夜と霧 123ページ みすず書房 1961年。」からの引用です。
「私は彼女の励まし勇気づける眼差しをみる???そしてたとえそこにいなくても???彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。」
「夜と霧」では、しばしば逆説的表現(パラドックス)が現れます。以下にいくつかひろってみます。
「人間がそれについて悟性を失う事物というものは存する・・・・・そうでなかったならば、人は失うべき悟性を有しないのだ」とかつて述べたのはヘッベルであったと思う。異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。(フランクル著作集1 夜と霧 99ページ みすず書房 1961年。)
元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、(略)、収容所生活のかくも困難な外的状況を、苦痛ではあるにせよ、彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には、体験しなかった。なぜならば、彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。(同書、121ページ。)
収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言ったとき、私の仲間はいつも賛成してくれた。(同書、173ページ)
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次に、原爆に関して、家永三郎「戦争責任」 岩波書店、1985年、より以下に引用します。
<バーンスタインは、「われわれは今では、原爆が遺伝的傷害をもたらし、この悪質な遺産をのちの世代に伝えることを知っていますが、1945年にはだれもそのことを知らなかったし、政策決定者層も科学者もそのことを予想せず、警告しませんでした」と言っているけれど、重大な結果をもたらす行為の実行を決断するものは、それによって生じる結果について責任を負わねばならない。もし1945(昭和20)年当時にそれが予見できなかったとしても、あれだけの破壊力を認識できたものにとって、そこまで予見できなかったとすれば、予見できなかったことについて少なくとも重大な過失がある、とされねばならないのではあるまいか(同書、324ページ)。>
戦争責任に関して、家永さんの同書から、以下にいくつか取り上げてみます。
<戦争責任の追及から積極的生産的な効果を導くためにはさらに慎重かつ複眼的な配慮が望ましいと考える。(同書、384ページ)>
<まず自分自身の、たとい戦争に協力しなかったにせよ、不作為の消極的戦争責任への反省から出発することが第一の急務であったとも思われるのである。(中略)戦争責任の問題を真剣にとり上げようとするときに何よりも先に自己の戦争責任の問題にたじろがずに直面することは、そのような没主体的思想彷徨に堕するのを防止するためにも、避けてはならない課題であったのである。(同書、383ページ)>
<日本国憲法が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争の放棄と戦力の不保持とを決意したのは、かような「民」のレベルでの「信頼」関係の累積・発展に期待をかける意思の表明であって、「諸国家の公正と信義」を盲信する意味と読んではならないと確信する。地の塩ともいうべき良心の持ち主は、国境と人種とを越えて世界のいずこにも見いだし得るという事実を知ることは、あまりにも非人間的な状況にみたされた世界であるだけに、私たちにとりいっそう大きな救いとなるのである。(同書345ページ)>
「戦争を知らない世代」にも責任はあるか: <それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである(同書309ページ)。> <国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きているかぎり、国家・民族が集団として担う責任を分担する義務を免れないのは当然ではないか。しかも、個人の独立が強いからこそ、その責任を個人の自発的意志により進んで背負うのである(同書311ページ)。>
家永さんの本から最後の部分を以下に引用します(家永三郎「戦争責任」 401-402ページ、岩波書店、1985年、より引用。)
「ただし、人間の力は有限であるから、どれほど誠実かつ全力を傾けても、必ず目的を達成できるとは限らない。不幸にして核戦争を阻止できず、もはやその「惨禍」を惹き起した責任を問うものも問われるものも地上に存在しない状態が現出しないという保障はない。それにもかかわらず、人が人であるかぎり、相対有限の中でなすべきことをなすことによって相対有限の世界にありながら絶対無限の世界に超出し、時間を超えた永遠の生命を獲得することができるのである。それは形式論理では解くことのできないパラドックスではあるけれど、人の人たるゆえんは、そのようなパラドックスの内にのみ生きるほかないところにある、というのが、ありのままに人の生き方を直視したときに明らかに見えてくる事実(Sache)である。戦争責任は、単なる相対有限の人と人との間で生ずる責任にとどまらず、相対有限の人が絶対無限なるもの(ここでは有神論に立つ「神」に限定して考える必要はない)に対する責任でもあるのである。最悪の事態を想定しても、戦争責任を償うための努力が無に終ることはないとの確信に立ち、そして最悪の事態を回避する選択肢が現に存在する今日、その選択肢を選ぶことを誤らないように、もっとも理性的かつ良心的に努力することが、戦争責任を償おうとするもののとるべき唯一の道として私たちの前に開かれているのである。」
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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡
2005年8月3日
日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡
一度は伍子胥のことを、そして范蠡のことを書いてみたい、と思い、(3ヶ月も前に)臥薪嘗胆から書き起こした。臥薪嘗胆エピソードの活劇、私の心のスクリーンの上で最も生き生きと活躍する人物は、闔閭・夫差や勾践ではなく、伍子胥と范蠡である。もとから私は、夫差も勾践も好きではない。前回の文章でも書いたように、私自身は「臥薪嘗胆」で頑張るのが好きだけど、所詮、烏龍茶をPR茶にレベルダウンする程度のお茶のみ話でしかない。臥薪嘗胆をしたのは呉王や越王である。もしも、私が当時の呉か越か、あるいは楚(#補足参照)に生まれていたとしたら、(歴史に「もしも???たら」は、禁物であるが)、夫差や勾践として生まれてはいない。生まれたときから、硬く冷たいベッドに寝起きし、まずいはずの胆もごちそうに思える庶民の子に生まれ、「いまに見ていろ」という育ち方をしたに違いない。私の意識の中では、夫差に生まれ変わることが、どうしてもできない。王様になれない私にとっては、「臥薪嘗胆」は、全く縁のない努力の範疇に属する。臥薪嘗胆の努力は、どこにも必要ない。忘れがたい恨みがもし有ったとするなら、薪の上に寝て部下から毎日思い出させてもらわなくとも、苦い胆を嘗めなくても、忘れはしない。
この臥薪嘗胆の物語と交差し合いながら、伍子胥の人生が同時進行する。伍子胥こそ、「決して忘れない男」であった。日暮れて道遠、死者を鞭打つ、その姿は二千五百年の歳月を経た今日でも、余りにも壮絶な映像フィルムである。呉王夫差が、「父王闔閭が殺された恨みを忘れるな」と部下たちに毎日ことさら言わせることなど、伍子胥の眼には児戯に等しいと映ったことであろう。陳舜臣さんの「小説十八史略」(*注)では、その辺りを上手に脚色して描いてあり、私も全く同感である。たとえ父親の仇であっても、人を恨み、憎み抜いて、相手かあるいは自分のどちらかが滅び尽くすまで、どろどろの世界で戦い続けることなど、生まれながらのプリンス、夫差には難しいことであった。ちっとも美しくない。潔くもない。きれいさっぱり水に流せないものか。夫差の気持ちはその後の歴史の進行が雄弁に物語っている。夫差は、実に才能豊かな英雄である。会稽での勝利の後、中原へ兵を進め覇者をめざして飛躍することとなる。(##補足参照)
以前、私は、「要は、癌と戦う気持ちを忘れなければそれでよいのだ」と書いた。私の難病への想いは、ほんのちょっぴりかもしれないけれど、伍子胥の楚王への想いに似ている。「初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった**注」???私は、もともとそのような「ひよわな志」しか持たず、少年の頃から中途半端、挫折ばかりを繰り返してきた。そんな私が、(低調な失敗の連続ではあったが)こうして25年も難病治療の研究を続けてこられたのは、その大きさ激しさ重さすべてにおいて伍子胥に遠く遠く及ばないのを承知の上で、敢えて語れば、伍子胥とどこか同質の執拗な想いがあるからだ。死者を鞭打つ伍子胥の姿に、おぞましく鬼気迫る狂気を見、眼をそむけ、後ろを振り向くことなく逃げ出してしまいたい、それが普通だ。が、司馬遷ならきっとそうしたであろうように、もし、私がその場に傍観者として立っていたならば、その場に立ちつくし、その姿を脳裏に焼き付け、歴史の一ページに書き留めようとしたことだろう。眼をそむけたいのに、逃げ出してしまいたいのに、できない。そうだ、伍子胥の生き様そのものが、私たちが忘れてはならない貴重な「歴史」なのだ。日暮れて道遠、私自身も最近ときどきこの言葉を人前で口にするようになった。その時、頭の中をよぎるのは、この伍子胥の姿。「必樹吾墓梓。梓可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」呉の国が滅びるよりもずっと前に、伍子胥の死体は揚子江に投げ捨てられてしまう。その最期までも壮烈。
さて、しかし、私が最も注目する「臥薪嘗胆」の故事の登場人物は、実は、范蠡である。私のふるさと津山の西部、院庄には、作楽神社(明治2年にできたもの)の史跡がある。後醍醐天皇と児島高徳(こじまたかのり)の故事、「天莫空勾践 時非無范蠡」(太平記)のゆかりの地である。私の小学校の遠足でははるばる歩いて行ったし、また、中学校の体育会ではこの漢詩の謡いに合わせてみんなで演武を舞わせられたりしたので、「天莫空勾践 時非無范蠡」の句を、40年近く経った今も忘れないのである。子供心にも、「ハンレイ」という人物、立派な人に違いないと信じていた。この范蠡、別名で何度も登場し、史記列伝のなかでも、私が最も注目すべき人物である。日暮れて道遠、となってしまった今だから負け惜しみで言っているように思われるかもしれないが、私はすでに15年ぐらい前から「粘りにでる作戦」にストラテジーを切り替えた。すなわち、医学研究分野での「早雲」たらんとする方針に切り替えたのである。北条早雲の若い頃のことは不明である。彼が、小田原で一国一城の主となったときすでに60歳。そのまま数年で死んでいれば、北条3代の繁栄は無かった。88歳まで地に足をつけて、しっかり生きたからこそ、諸国の大名から政治面でも生活面でも尊敬される「北条早雲」となったのである。中国の歴史(たとえば史記列伝)の中には、熟年で頑張った人物たちが、さらに大勢登場する。人生を二毛作か三毛作で生きた人々である。(これからの時代は四毛作***注 であろう。) なかでも范蠡は、呉越戦争終了後、越王勾践ときれいさっぱり縁を切って、さっと旅だってゆく。あの潔さがたまらない。素敵な生き様だ。しかもそのまま「去りゆくのみ」ではない。カメレオンのように姿を変えて颯爽と、今度は貨殖列伝のなかに登場する。先に述べたように、たとえ想像上の仮定でさえ、プリンス夫差になれない私が、現実になんとか范蠡を先生としたいと思っているのだから、不思議な矛盾に驚かされる。呉の国を滅ぼしてしまったように、(たったひとつでも良いから)難病をなんとか粘って滅ぼした暁には、あの范蠡のように、さっさと勾践を見限って、また新しい挑戦の旅に船出してみたいのである。 「だから決めた できれば長生きすることに 年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように ね ****注」 だから私の墓には梓の樹を植える必要はない、と思いたい。しかし、いかに超持久戦に持ち込んでいるのを自覚している私でも、「日暮れて道遠」は、見つめなければならない重い現実である。范蠡のように勝利を得てさらに高く飛翔することが、理想。しかし、第一目標が達成できない私のような研究者は、伍子胥のように最期まで、鬼気迫る面持ちで、薄氷を踏むような実験を重ねてゆくことになるのだろうか。念のため、梓の種を蒔き、小さな苗から育て始めても、尚早ではないかもしれない。梓の樹ってどんな樹なのか? 北海道でも育つのだろうか?
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注* 陳舜臣 小説十八史略 毎日新聞社 1987年。
注** 茨木のり子詩集 自分の感受性くらい <新装版> 花神社 2005年(初版は1977年)。
注*** 石津謙介 人間的な かっこいい貧乏人の人生四毛作論 三五館 1998年。
注**** 茨木のり子 わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子詩集 見えない配達夫 童話屋 2001年復刊(初版は1958年)。
#補足: 楚は現在の湖南、湖北両省の地域を指す。
##補足: そして西施も登場し、「顰み(ひそみ;眉をしかめること)にならう」という故事も生まれる。夫差の死、すなわち呉国の滅亡の後、西施がどのような生涯を送ったのか、史書に記載がない。(西施の名は「春秋左伝」や「史記」などの正史には見えない。)陳舜臣さんの「小説十八史略」では、范蠡と共に越を去り、新たな人生を歩んだように描かれている。私も西施には幸せに生き延びてもらいたい。しかし、范蠡の経営する八百屋の店頭に立って、大声を張り上げて野菜を売りさばいている商売上手の女将さんの西施の姿を想像することは、私の想像力をもってしては難しい。400年後の司馬遷の頃には西施の記録はすべて失われていたことだろう。あるいは、西施の行方は、夫差の死後すぐに、だれにもわからないものになったのかもしれない。陳舜臣さんのような優れたストーリーテラー(###補足参照)に任せるべきテーマ。
###補足: 小説と歴史について 陳舜臣の「小説十八史略」は、文字通り、小説である。司馬遼太郎の歴史小説が大衆小説であるのと同じ意味で大衆小説である。私(HH)は、陳舜臣や司馬遼太郎の歴史小説を興味深く読みはするが、しかし、しばしば、「いや、本当は別のことが起こっていた」と思い始めると、余り楽しめなくなる。すなわち、私は、小説よりも「歴史」の方がずっと好きである。こんなことがあったとしたら面白いだろう、という小説よりも、資料を精確に評価して真実を追究してゆく「歴史」を読みながら、考えることが好きである。皆さんも歴史小説が「小説」であることを忘れずに。是非、オリジナルの「史記」その他の歴史書も読んでいってください。
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雨の中の自転車通勤
2010年10月5日 火曜日
昨日に続いて今日も雨模様の朝。昨日は地下鉄で通勤したのであるが、今朝は自転車で行ってみることにした。家を出て漕ぎ出してみると、雨の粒が大きめで、昨日よりはずっと強い雨であることに気づいたが、風もなく、まずまずの通勤日和ということにして、ゆっくり漕いでいった。東札幌までは23分。いつもよりもずっと遅いのであるが、安全が重要。先週、自宅の室内に自転車を持ち込んでブレーキの遊びの調整を行ったのが、上手にできたようだ。ただし、雨のせいで制動が悪くなっている。このようなコンディションではスピードをできるだけ落として進むべきだ。ディスクブレーキにした場合には、雨の日の制動は改善されるのであろうか?
先日からセッレSMP-hybridのサドルを装着して乗り心地を試している。お尻がぴったりと落ち着いて、座って漕いでゆくには非常に安定している感じだ。ただし、通勤の10数キロの距離を乗っただけでは、ロングライドの時にどんな感じか、痛みがでないかどうか、など予測はつかない。週末に天候が許せば少し遠くまで乗ってみたいと思う。
ちなみに、ほぼ同時期に、セッレ・イタリアのスポーツアラーというシリーズの革のサドルをロードバイクにつけて試乗している。こちらは、SMP-hybridよりも手触り押した感じがずっと柔らかいにもかかわらず、乗ってみるとずっと堅めに感じるので意外であった。座面と座骨との当たり具合によるものであろう。これも少し長時間長距離を乗ってみないと私の身体にあっているかどうか予測がついていない。
職場についてレインコート、レーパンなどを着替える。身体の前面にはほとんどハネが飛んでいなかったので楽観していたが、背中をみれば全面にモーレツなドロハネを浴びており、満員のエレベータなどに乗ったりはできない状況であった。雨の日でも時々は自転車に乗るということであれば、少なくとも後ろのタイヤにはドロヨケを装着したいところである。
また、靴がびしょぬれで、靴下、足底のサポーターソルボに至るまで水没していた。まだ十月で、気温が高く、大丈夫であるが、もう少し冷えてくれば、この状況は対策が必要であろう。靴下の着替えも必須であろう。
自転車による雨の日の通勤は、晴れた日に比べればそれほど快適なものではないが、電車や地下鉄などにうつむいて乗っていることに比べれば、ずっと爽快で生きている感じがある。タイヤ幅広め1.25インチのマウンテンバイクは街乗りでは十分に安定しており、ゆっくり安全に気をつけて走れば、交通事故などに関しては、まずは大丈夫そうだ。所要時間も晴れたときの自転車と比べて、耐え難いほどの大きな差は無い。ただし、今日のような雨はひどくても風のない穏やかな日は、比較的稀であろうし、自転車に乗ることを控えるべき状況の時は手控えるという冷静な判断が大切であろう。
職場に着いて、自転車から降りたところで、皮肉なことに、雨もやんでしまった。雲間からお日様も光を届けてくれた。ということは、時間が許せば、景色のよい木陰などでゆっくりと止まって俳句の言葉など想いながらのんびりやすんでいれば、大粒の雨にもそれほど打たれなかったかもしれなかったのだ。退職したら、そんな感じで、快適に雨宿りする境地に遊びたいものである。すなわち、通勤も卒業の日を迎えたいものだ。遡って考えれば、自転車通勤も、目的地にたどり着くことを目指すのではなく、自転車に乗って過ごす時間自体を楽しむこと、退職するまでもなく、今からこの境地を理想としてゆきたいと考える。あれ? もともと今日もそんな感じですごしてしまったかもしれない。(実は、これから仕上げなくてはならない仕事が山積みなのだが)
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昨日に続いて今日も雨模様の朝。昨日は地下鉄で通勤したのであるが、今朝は自転車で行ってみることにした。家を出て漕ぎ出してみると、雨の粒が大きめで、昨日よりはずっと強い雨であることに気づいたが、風もなく、まずまずの通勤日和ということにして、ゆっくり漕いでいった。東札幌までは23分。いつもよりもずっと遅いのであるが、安全が重要。先週、自宅の室内に自転車を持ち込んでブレーキの遊びの調整を行ったのが、上手にできたようだ。ただし、雨のせいで制動が悪くなっている。このようなコンディションではスピードをできるだけ落として進むべきだ。ディスクブレーキにした場合には、雨の日の制動は改善されるのであろうか?
先日からセッレSMP-hybridのサドルを装着して乗り心地を試している。お尻がぴったりと落ち着いて、座って漕いでゆくには非常に安定している感じだ。ただし、通勤の10数キロの距離を乗っただけでは、ロングライドの時にどんな感じか、痛みがでないかどうか、など予測はつかない。週末に天候が許せば少し遠くまで乗ってみたいと思う。
ちなみに、ほぼ同時期に、セッレ・イタリアのスポーツアラーというシリーズの革のサドルをロードバイクにつけて試乗している。こちらは、SMP-hybridよりも手触り押した感じがずっと柔らかいにもかかわらず、乗ってみるとずっと堅めに感じるので意外であった。座面と座骨との当たり具合によるものであろう。これも少し長時間長距離を乗ってみないと私の身体にあっているかどうか予測がついていない。
職場についてレインコート、レーパンなどを着替える。身体の前面にはほとんどハネが飛んでいなかったので楽観していたが、背中をみれば全面にモーレツなドロハネを浴びており、満員のエレベータなどに乗ったりはできない状況であった。雨の日でも時々は自転車に乗るということであれば、少なくとも後ろのタイヤにはドロヨケを装着したいところである。
また、靴がびしょぬれで、靴下、足底のサポーターソルボに至るまで水没していた。まだ十月で、気温が高く、大丈夫であるが、もう少し冷えてくれば、この状況は対策が必要であろう。靴下の着替えも必須であろう。
自転車による雨の日の通勤は、晴れた日に比べればそれほど快適なものではないが、電車や地下鉄などにうつむいて乗っていることに比べれば、ずっと爽快で生きている感じがある。タイヤ幅広め1.25インチのマウンテンバイクは街乗りでは十分に安定しており、ゆっくり安全に気をつけて走れば、交通事故などに関しては、まずは大丈夫そうだ。所要時間も晴れたときの自転車と比べて、耐え難いほどの大きな差は無い。ただし、今日のような雨はひどくても風のない穏やかな日は、比較的稀であろうし、自転車に乗ることを控えるべき状況の時は手控えるという冷静な判断が大切であろう。
職場に着いて、自転車から降りたところで、皮肉なことに、雨もやんでしまった。雲間からお日様も光を届けてくれた。ということは、時間が許せば、景色のよい木陰などでゆっくりと止まって俳句の言葉など想いながらのんびりやすんでいれば、大粒の雨にもそれほど打たれなかったかもしれなかったのだ。退職したら、そんな感じで、快適に雨宿りする境地に遊びたいものである。すなわち、通勤も卒業の日を迎えたいものだ。遡って考えれば、自転車通勤も、目的地にたどり着くことを目指すのではなく、自転車に乗って過ごす時間自体を楽しむこと、退職するまでもなく、今からこの境地を理想としてゆきたいと考える。あれ? もともと今日もそんな感じですごしてしまったかもしれない。(実は、これから仕上げなくてはならない仕事が山積みなのだが)
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テーマ : 紀行 旅で見つけた風景など
ジャンル : 日記
マウンテンバイク改造への第一歩。K店長さんへメール。
マウンテンバイク改造への第一歩。K店長さんへメール。
2010年10月1日
ご無沙汰しております。昨年の2月にGIANTのDEFYでお世話になりました。 DEFYはこれで2シーズン、約3000km走り、とても楽しませていただいております。
さて、今回は私が通勤に使っておりますマウンテンバイクに関するご相談です。アルミフレームの安価なバイク(プジョー・CADET)ですが、ここ3年で5000km以上走り、愛着があります。めったに非舗装道路を走らないため、タイヤは最近スリックタイヤ(26x1.25)に交換しました。主に舗装道路で12km程度の通勤と街乗り中心に使っています。十数年も経過しており、切替装置の具合も今ひとつ、さらにブレーキパッドなど消耗してきましたので、この秋は部品交換のついでに少し改造をしたいと思います。
1.ブレーキの交換: できればディスクブレーキに。
2.切替装置の交換: 現在はシマノのALTUS(7段)がついていますが、これをよりグレードの高いものに。できればスプロケット9段でスムーズな変速ができるものに。
3.ハンドルバー: やや長すぎるので、もう少し短くするかフラットバーハンドルなどに交換。しっかりしたエンドバーグリップの装着。
4.ブレーキレバーと変速レバーなどの新しいシステムへの交換。
おおむね以上のように考えております。一度、店長さんのお時間をいただけますおりに、自転車を持参し、アドバイスの上、見積もりなどお願いできましたら幸いです。私、貴店に職場が近いので、平日の日中におうかがいすることが可能です。
お忙しいところ恐縮ですが、ご都合の良い日取りと時刻などの候補を2,3ご指示いただけますよう、よろしくお願いいたします。
2010年10月1日
ご無沙汰しております。昨年の2月にGIANTのDEFYでお世話になりました。 DEFYはこれで2シーズン、約3000km走り、とても楽しませていただいております。
さて、今回は私が通勤に使っておりますマウンテンバイクに関するご相談です。アルミフレームの安価なバイク(プジョー・CADET)ですが、ここ3年で5000km以上走り、愛着があります。めったに非舗装道路を走らないため、タイヤは最近スリックタイヤ(26x1.25)に交換しました。主に舗装道路で12km程度の通勤と街乗り中心に使っています。十数年も経過しており、切替装置の具合も今ひとつ、さらにブレーキパッドなど消耗してきましたので、この秋は部品交換のついでに少し改造をしたいと思います。
1.ブレーキの交換: できればディスクブレーキに。
2.切替装置の交換: 現在はシマノのALTUS(7段)がついていますが、これをよりグレードの高いものに。できればスプロケット9段でスムーズな変速ができるものに。
3.ハンドルバー: やや長すぎるので、もう少し短くするかフラットバーハンドルなどに交換。しっかりしたエンドバーグリップの装着。
4.ブレーキレバーと変速レバーなどの新しいシステムへの交換。
おおむね以上のように考えております。一度、店長さんのお時間をいただけますおりに、自転車を持参し、アドバイスの上、見積もりなどお願いできましたら幸いです。私、貴店に職場が近いので、平日の日中におうかがいすることが可能です。
お忙しいところ恐縮ですが、ご都合の良い日取りと時刻などの候補を2,3ご指示いただけますよう、よろしくお願いいたします。
テーマ : 紀行 旅で見つけた風景など
ジャンル : 日記



